駿国雑志

2021年9月25日

鯵は鮓にする

駿河国(静岡県中部)の地誌。

旗本阿部正信は、江戸時代、文化14年(1817)に駿府二加番の護衛隊隊長として江戸からやって来た旗本である。 1年間の赴任中に駿河国中を見て回り、調べた資料を元に、江戸へ戻って以降編集したもの。

「鯵」について記述している 有渡郡廣野村(静岡市駿河区広野)の浜には、漁師・猟師ともに網を引いて見れば鰺のみ数多くかかり、所々に積み重ね、魚の山を並べ、又、大勢で高縄を引き上げて見れば、およそ2.25kmありと言う。 小鯛、大鰺、雑魚数多くかかる。魚は共に踊りはねるを市場に持ち出して売買して暮らす。見物人も楽しんでいる。安倍川の河口より、西の浜、東の浜を前浜と言う。うんうん。今も広野村は漁業権問題で用宗村にわるがしこい事をしているようだ。太く丸みあり、見た目は鰺に似ているが鰺ではない、これを食えば毒が深くたちまち酔ってしまう。ここの村の者はコノシロ喰う者少し、故に多く鰺を鮓(すし)にする。府中の市場で鮓(すし)にする魚は鰺及び平目、鯖類である。長門鮓は蝦(桜えび)を用いる。飯は異壤鮓である(五目ずし)。
すべて鰹、鯖、鰺等は鉑と言って下魚でキラキラと光る魚は腐敗し易く腹下しするので皮上に毒があると昔から言われている。他方の人がもしこれを食ばるなら砂糖水漬けて食べれば気持ち悪くなることはない。

明治43年 静岡 吉見書店が蔵版

駿河国志云。有渡郡廣野村濱手には、猟師共網も引きもあり、上るもあり。 行て見れば鯵のみ数多くかゝり、所々に積重ね、魚の山を築並べ、又、大勢で引き見れば、高縄とて沖より引き上げにて、凡千五百尋ありと云へり。

鯖を生で食べることへの戒め

江戸時代の駿国雑志に「鰹、鯖、鯵等鉑と號て、雲母の如きも皮上にあるは、必毒ありて酔事あり」と記述がある。
すなわち鰹、鯖、鰺等は鉑と言ってキラキラと光る魚は腐敗し易く皮上に毒があるので腹下しすると昔から言われている サバはイワシ、サンマ、ニシンなどの回遊魚と同じように、海の上層を泳ぎ、水圧を強くうけないせいか、 肉質中に多量の水分が含まれているから、陸揚げすると腐敗菌が急激に繁殖するので腐敗速度が速い。 表面はみずみずしく、新鮮らしく見えても内部は腐り始めている。 漁師は、漁獲したばかりのピンピン踊りあがっているようなサバでも刺身にして食べることを厳しく戒めている。 昔からサバの毒にあたったら薬はないといわれている。(昔は砂糖水が良いとも言い伝えられている)
心あるすし屋は塩と酢でしめたサバすなわちシメサバしか握らなかった。 昨今のそのまま生で食べる風潮は如何なものか。

鮪の大漁

「駿国雑志よれば文化15年3月(1818)有渡郡下島(静岡市駿河区下島で安倍川の東側)村邊に鮪寄事数百尾、 府在是を鬻ぐ(売る)に猶餘りあり。故に悉く生肉を捨て、田間のこやしとせり。是百有餘年の大猟也。云々。」とある。
天保年間末(1844)江戸でも鮪(マグロ)の大漁が有り、鮪の保存方法が無かったので路上に野積みされた。当時、江戸では赤酢の開発により握りずしが生まれた時代で、 生魚に限っては醤油漬したので醤油漬けと言えば鯛とかひらめなどに限ったものでした。
(当時鯛、ひらめは一度酢にくぐらせて、もう一度醤油をくぐらせた)) 当今ヅケ(醤油漬)と言えば鮪に限ったように思われていますが「これは甚だ不見識・・・」と明治43年刊小泉迂外の「鮓のつけかた」に記述ある。 天保年間末(1844)江戸でも鮪の大漁が有り、マグロの保存方法は無かったので、そこで馬喰町の恵比寿鮓が試みたのが鮪の醤油漬けでした。尚、「付け加えておきますと鮪(マグロ)は東京(江戸)の方言であり、関西(上方)はシビと言い、 「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわからない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえに江戸ではマグロと称した」