與兵衛の鮓

2021年9月24日

NO1「與兵衛の鮓」家庭 鮓のつけかたの本

お客様には目に触れることが少ない本でありますので参考になればと掲載してまいります。
古い「與兵衛の鮓」の仕事を知るための資料として、與兵衛寿し4代目主人の弟でもある小泉清三郎「俳人小泉迂外(こいずみうがい)が
明治43年に記した「家庭の 鮓のつけ方」という本である。
この本は家庭では、最も苦手とされる「握りずし」を丁寧に書かれた手引書である。
素人相手の手引き書といわれても、玄人たちがそこから教えられるものは決して少なくないはずである。
口絵の部分には、明治10年頃、実際に「與兵衛寿し」で握られていた鮓を日本画家の川端玉章が写生した15種類の絵が描かれている。
(意味するところ有りすしの文字に鮓・鮨・寿しが使い分ける)

NO2「與兵衛の鮓」初代花屋與兵衛とは

握りずしは「初代花屋與兵衛」により大成された。
この與兵衛(1799~1858)は、福井藩出入りの八百屋のせがれで、九歳の時に、江戸・蔵前の札差板倉屋清兵衛方に下男奉公に入り、十数年間を勤め上げる。父は泉籐兵衛、という。福井藩の下級武士ではなかったかと考えられる。
彼は二十数歳で板倉屋を退いた。がんらい器用な性質だったらしく、握りずしを創案したと伝えられる。
文化7年(1810)に江戸本所横綱(現在の東京都江東区)の長屋に住み鮨屋を開業した。
毎夜、我が家に近い岡場所(私娼窟)を夜明け頃まですしを売り歩いて小金を貯め、
当時は歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋が立ち並ぶ江戸有数の繁華街である両国、しかも勧進相撲興行の会場でもある
尾上町(両国回向院前)の前に文政年間(1818~1830)に小さな店を持って『與兵衛ずし』の看板を上げた

NO3「與兵衛の鮓」飯と調和方

炊き方

戦前までのすし屋の飯は薪、炭炊きであった。
炭炊きの場合はやわらかい炭で火の口の閉じ加減、つまりふかす度合いにより、釜底に焦げ飯ができる位のまでふかしたほうが、うまい飯に仕上がる。

調和方

「あわせかた」と読む。酢と塩の調和(砂糖を使えば酢と塩と砂糖の調和)
この「家庭 鮓のつけかた」本には「散布するそばから団扇(うちわ)で風を送る・・」とあるが、これはおかしい。
すし屋ならだれでも途中の風送りは酢合わせには禁物。すっかりまぜ終わってから、風おくりがちょうど良い
風送りは、飯を冷ますためではなく、飯の表面がベタベタしないように、余分の水分をとばして艶をだすためである。
江戸時代はすし飯に海苔、椎茸、おぼろなどをまぜ合わせたので、風送りにうるさくなかった。

参考文献 解説家庭の鮓のつけかた 吉野曻雄 吉野鮨本店(日本橋)著

NO4「與兵衛の鮓」酢と塩

酢は尾州半田で醸造します「山吹」に限る。
(ミツカン酢の三つ判の山吹で江戸前の鮨にはぴったり適した濃色の赤酢)
酢は夏季には利き過ぎるので分量を加減する。
又、腐敗が早いからこれを防ぐには一つまみの塩を入れる
塩は飯用(シャリ)には新斎というのがよい。又、魚類用(仕込み)には赤穂を使い、区別して用いる。
(新斎とは苦汁を除いた塩、徳島県斎田で初の塩田が開かれたので、斎田塩からの呼び名)
(赤穂は忠臣蔵の発祥地兵庫県赤穂で産出)

NO5「與兵衛の鮓」醤油と味醂

醤油は煮物とか二杯酢、三杯酢に用いるので有り合わせのものでも宜しゅうございますが、なるべく亀甲萬・山サ・ヒゲ田・山十とかの上等の樽を吟味して用います方が総ての点に於いて得用です。
当時は夏季になると醤油はカビが生じた。味の点になると、カビの生じた醤油の方がうまかった。(現在の醤油はカビが生じない)
味醂の歴史は慶長(1596~1615)以後で、歴史は400年である。当時、酒、味醂でも粗悪な廉価なのが多かったので千葉県の流山の瓶詰味醂が上等品で至極安心であると勧めている。
味醂の匂いを消す為に一度沸立たせて(火を入れてアルコール分を除くこと)用いますがこれは各自の適宜で強いてこの方法によらねばならぬと云うわけではない。と解説している

NO6「與兵衛の鮓」砂糖

握りずし創案の段階においては、この本の合わせ酢のように、酢と塩だけによって仕上げられたすし飯にこそ基本的味のよりどころがあったと思われる。そうでなくては、口絵に見るエビ、イカ、大巻などの飯にまぜ物をした重厚なすしの味の出どころは考えられないのである。無論、当時のちらし、五目においてもいえることである。
東京のすしにおける砂糖の位置は、あくまで隠し味である。それでこそ、灰引きの砂糖という高度な甘みへの追及が必要と言うものである。

NO7「與兵衛の鮓」鮓売り(すしうり))

安政時代の鮓売りの形装(なり)は頭に手拭の吉原かぶり、着付けは松坂(三重県)の木綿の縞(しま)織物、襟は黒八丈を付けた半纏(はんてん)、帯は小倉織を締めて,木綿の股引に白足袋、麻裏草履という身なり。鮓売りは身綺麗につくろい、さっぱりとしてその時代に流行(はやった)「イキ」「イナセ」の風俗で、すしを白木の1尺(30.3cm)以上箱、すし桶を5,6個重ねて担いでだりした。右手にはサービスのお茶のやかん 「鮓(すし)やすう~し小鰭(こはだ)のすう~し」と長く引いて呼び歩いたもので、 美音(びたん)と行装(なり)の綺麗さに釣られて需要者がおびただしかった

NO8「與兵衛の鮓」江戸に鮓屋が出来た時代

貞享四年(1687)5代将軍徳川綱吉の時代で近江屋、駿河屋2軒が「江戸鹿子」に載っているばかりです。 数日漬け込む古鮓(鮓とは“すし”と読み関西方のすし)で、鮎・鯖等を飯に漬けて置き、日数を貯えて、酸っぱくなし物を鮓として・・・・。とあり、江戸の中期まではすべて「古鮓」(馴れずし)であった。 その後、8代将軍徳川吉宗が死去した時代寛延四年(1751)に深川鮓と御膳箱鮓の二軒が追録されて、64年間で2軒だけしか増えていない。 これが鮓の第一の転換期である。 御膳箱鮓の看板には「交ぜ鮓、早漬、切漬、其外御望次第云々」とある。 「交ぜ鮓」とは「こけらずし」(屋根に敷くこけら板に似ているので)又は「起こしずし」、「すくいずし」とも云う。今の五目ずし(「混ぜずし」「ばらずし」)のような鮓である。 早漬は当座鮓とも云い、飯と具を桶に入れてちょっと押さえ漬けるようにして、そのまま食べるもので、簡便さを狙った鮓である。 切漬とは片身に切って漬けた鮓を云ったので、お好みに合わせて売っていた。 天明七年(1787)11代将軍 家斉の時代になると非常に鮓屋も増えて20数件になった。今までは簡単な看板(商號)であったが時代と共に変化し、高等な鮓屋であったと云うのでは決して無いのですが「御膳御鮓 伊勢谷」「御鮓所 西村屋」「蛇の目ずし」「江戸前地引鮓」等、「商號を謎より捉えたのは洒落文学旺盛の余波で鮓屋の如き下層社会にも尚一片の趣味を重んじた太平の面影が眼に浮かぶのです・・」 これまでは京阪から伝わった押し鮓ばかりで江戸八百八町物色しても握りずしは見当たらなかった。 寛延時代から50年経つた文化始め頃(1803~)世上が一変する。それは「握り鮨」が「與兵衛鮓」により流行するのである。

NO9「與兵衛の鮓」押し鮓から握り鮨を思いついたわけ

握りずしの起源には諸説があり、定説はない。 文政時代初めのころ「與兵衛以前に此の新法を企てた者も2,3はありましたようですが皆失敗に帰して市人の嗜好に適さなかった・・」と述べている。 與兵衛が握りずしの始祖と言うべきとことは芭蕉等の俳諧で知るところである。 文政10年(1827)「妖術という身で握るすしの飯」が握りを題材にした最古の川柳である従ってこの年が起源とするのがほぼ一致するころである。 與兵衛がどのような理由で握り鮨を思いついたのであろうか。 文久子『またぬ青葉』明治20年頃刊が初代與兵衛を語った唯一の書があった。 「昔の鮓は飯が多くして下品なれば之を改めんと斯くて之に至りぬ。又、當時の鮓は魚の油を絞りて握りたる飯に付け箱の中に列らべ笹にて一つ宛てしきり其上に蓋をなし石を置き3、4時間程經ちて蓋を取り“鮓べら”と云う竹箆(たけへら)にて一つ宛てがし取る也。故に三日位、置でも變(かわり)ぜず“客来れば只今直ぐに出来ますなどと云う。 翁は此の製方の悠長なるを厭(いとう,嫌や)ひ、“又押し鮓にては折角美味を持てる魚も油を絞りまずくする事本意に非ず”と初めて握早漬を工夫せし也」(與兵衛傳抄録)と出ております。 江戸時代の駿国雑志にも「鯖、鯵、秋刀魚等鉑と號て、雲母の如きも皮上にあるは、必毒ありて酔事あり」と記述がある。 すなわち秋刀魚、鯖、鰺等光る魚は水圧を強くうけていないので肉質中に多量の水分が含まれている。水揚げすると腐敗菌が急激に繁殖する。よって、腐敗速度が速いので、刺身にして食べることを厳しく戒めている。

このように当時の押し鮓のアジ、サバ、コハダ等は塩で十分にアク抜き(体内のヨゴレ)をするので魚の旨み成分の脂肪分が取り除かれ、敷き詰めたすし箱には3、4時間も石を載せて脂を絞りきってしまう。 落語の「サンマは目黒に限る」というオチでお馴染みのサンマも旨み脂肪分を取り除いて調理させたから、パサパサでまずいこと、この上ないサンマを将軍に食べさせた話で“塩梅はどここえやら“である。 その上3日間作り置きした押し鮓を今、直ぐに出来るとは“悠長な食べ方”を嫌って工夫するきっかけとなったのである。 又、当時の江戸の情況が拍車をかけ押し鮓から握り鮨に転換をさせたのである。 「家庭割烹講義録」明治35年刊に 「當時の江戸の食味は殆んど其頂点に達し山谷に八百善起り深川に平清、開かれ葛西太郎百川等の割烹店が前後して腕を競った時代ですから従って日常口嗜を論じて菓子、蕎麦、天ぷらに至る迄新奇、新奇を改良され珍らしい食物は先を争って試みたと云う風でしたから勢い“オックウ”で保守的なる押鮓は遂に江戸趣味の厭ふ處となって之に代るべき握鮨を多大の好情を以て迎へたのです」と出ております。 このように江戸は屋台文化が店構えに移行して「料亭」「蕎麦屋」「天ぷら屋」「鰻屋」「鮨屋」等の業態が登場し、互いに切磋琢磨し、時代背景が追い風となったのです。 狂歌から当時の與兵衛の盛況ぶりが伺える。

「鯛比良目いつも風味は與兵衛ずし買手は見世にまって折詰」   菊成
「こみあいて待ちくたびれる與兵鮨客も諸手とも手を握りけり」  生成

NO10「與兵衛の鮓」大阪箱すしの工夫と江戸握り鮨の反省

当時、京阪(上方)まで人気を博した江戸前握り鮨以後、箱ずしは廃れたが、 文政時代末(1828)頃に大阪心斎橋のすし屋「福本」が具を従来の2倍近い厚さにして重石で押して置いた従来の方法を,手押しに改めもしたという。以後、大阪のすしの作り方が一変した。 明治20年代(1890)に船場の「吉野寿司」が、これをさらに洗練し上置きの具を酢締めのタイ・締めサバ・塩ゆでエビ・焼きアナゴ・厚焼き卵などに改め、これを二寸六分のすし枠の中に配置、「会席膳」が凝縮されているような箱ずしを考案したという.。 屋台店で始まったにぎりずしのように、「製して、すぐに食べる」という動きに走らなかったことにある。魚の旨みを包み込む下処理をして、しっかり押しをかけ、かつ、しばらく置いた方が具とご飯がなじんで風味は増す。それゆえ、昨今の業態の違う(屋台店の継承)にぎりずしがすしダネの下処理を放棄して刺身をそのまま乗せるようになったのとは対照的に、具の下処理を怠らぬやり方が伝承されている。合わせ酢に砂糖を効かせるのも、その方が日持ちしやすいからである。 出前やすし折・弁当に持って出掛けたりする習慣が、大阪では至極自然に息づくことになっている。 当時、「江戸前の鮨」も日本料理基本の刺身・煮物・酢物・焼物・・を一人前に凝縮して「すしを積み」、屋台店以外のすし屋は甘口の酢飯(「與兵衛の鮨」)で弁当(折詰め)を主体に製していたことは現在の箱ずしに通じるところがある。再度、江戸前握り鮨も箱ずし(押し鮓)同様に具の下処理を怠らぬやり方、即ち「きめられた手順で仕事をする」すし作りである。

NO11「與兵衛の鮓」が江戸1番のすし店となった理由

200年前江戸前握り鮨の開祖「與兵衛寿し」をPRして江戸一番の繁盛店にした宣伝マンは、丹後田辺(京都)藩主牧野家と向井水軍(海賊衆)の侍であった。
江戸中期には日本橋川と楓川の合流地点に当たる橋詰には海賊奉行(御船手奉行)向井将監の邸があったので海賊橋とか将監橋などと呼ばれており、隣り合わせに丹後田辺(京都)藩主牧野家3万5千石の上屋敷があった。又、松平越前守(福井藩)の上屋敷・下屋敷。徳川田安家邸も近隣にあった。

◆鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし買手は店に待って折詰

◆こみあいて待ちくたびれる与兵衛すし客ももろとも手を握りけり

この狂歌にありますようにとにかく與兵衛の店は繁盛店だったのです。 その要因は 「與兵衛寿し」は隅田川北部、両国橋の回向院前に有り、常連で食道楽の海賊橋の丹後田辺(京都府田辺市)藩主牧野家3万5千石の殿様、牧野以成(まきのもちしげ)が「次回来るときまでにかわった「おつな」すしを喰べさせてくれ・・」と注文あり。いろいろと工夫を巡らした末、芝蝦を煮てすり「おぼろ」をつくり、これを握ってさしあげたら意に叶い美味しいとほめられる。そして、天保6年(1835) 六代山本嘉兵衛徳が玉露茶を発明すると「山本の玉露茶」をいち早く汲んですすめたのも大いに満足をして、 この「おぼろすし」を宣伝してくれた結果、江戸で評判になり各大名屋敷でも時には参勤交代の折、国元からの侍に出前すしを食べさせ、国元へ旅の土産話として口伝で評判呼び江戸一番の繁盛店になり、早くも上方でも箱ずしを押しのける人気ぶりとなった。 その後、現在は海賊橋詰の牧野邸跡地は東京株式取引所が設立され日本経済の中心地として兜町の名を高めたのである。 天正7年(1579)持舟城(静岡市駿河区用宗)城主向井正重は武田信玄に仕え徳川家康軍との戦いがおこなわれ命を落とした。向井水軍は正重の実子正綱が継ぐこととなり、家康に早くから仕えて活躍した。 隅田川河口部と海(東京湾)は軍事上の拠点で埋立てられ武家屋敷となり、文政4年(1821)家督を相続した10代向井将監(しょうげん)正通はこの地に江戸を守る水軍(海賊衆)の御船手組頭と軍艦奉行職を与えられた。11代向井将監正義は勝海舟とともに軍艦操練所初代頭取も務めた。又、向井家に代々伝えられた船手の游法、水軍の技術方法『向井流水法秘伝書』を編纂。歴代将軍に(現在の浜離宮公園)で御船手組の者が水泳を披露。 明治維新15代慶喜ともに11代向井正直は静岡に住み、夏は静岡市下田に来た明治学院大学の生徒に水泳を教えた。

NO12「與兵衛の鮓」すしと奢侈令

當時は小海老の需要者が尠なったので自然珍とされたのでせう。
「斯様な奇抜な珍なものや贅澤な鮓を賣った為遂に彼の天保の「御趣意」騒動には早くも町奉行の注視する處となった」ある。
天保13年(1841)第12代将軍家慶の老中水野忠邦が奢侈(しゃし)禁止令で衣類の仕立屋、下駄屋、小間物屋等がおとがめになり、鮓屋は200人以上召し捕えられた。
芝居小屋の江戸郊外移転、寄席の閉鎖、歌舞伎役者の処罰等庶民の娯楽に制限を加えた。 贅沢な雰囲気を一掃するべく改革は江戸南町奉行の遠山景元(テレビの時代劇『遠山の金さん』のモデル)を通じて江戸市中にも布告され、贅沢・奢侈はことごとく禁止され、質素倹約をすすめますが逆に経済の混乱を招く結果に・・・。さらに、町は贅沢品や庶民の楽しみを奪った為に活気がなくなり不景気は更に進んでいくことに・・・。
上知令を断行しようとして大名・旗本、大奥女中に抵抗され、大奥は改革の対象外とされた。
「與兵衛が他の古同業者を排して新進ながら松の寿司と並んで検挙に遭ったのは却って市人の好奇心に投じて握鮓の流行を促す潜勢力となったのです」

NO13「與兵衛の鮓」白魚

「しらを」とはシラウオ(白魚)の江戸なまりである。

[煮方]

「江戸期~明治期までは味醂、醤油、塩・・・にて調合・・」とあるが。 大正期~今日までは味醂、醤油は一滴もいれない。砂糖のみである。 汁は充分に、首尾を揃え並べ入れ、落し蓋をして身が曲がらないように、火強くなく煮上げます。

[握り方]

隈笹やハラン(葉蘭)に並べ身を損ぜぬように軽く握り、 帯は干瓢を用いる。

「花の咲くころは子を持つので味も劣る・・・」2月~3月頃までが旬。
「干瓢の帯しめさせて春はらむ 與兵衛がすしの子持白魚」
隅田川や東京湾の「しらを」はすでに絶滅。江戸前の白魚のすしも絶滅。
”江戸のすし、まず白魚にさきだたれ”

参考文献 解説 「家庭の鮓のつけかた」 小泉清三郎著

参考文献 解説家庭の鮓のつけかた 吉野曻雄 吉野鮨本店(日本橋)著

参考文献 「江戸食文化紀行」 松下幸子著