鮨を知る
2021年9月21日
安倍川の流れと駿府。安倍川は浅間 神社の前でいくつかに枝分かれしていた。 大井川・天竜川・富士川と違って交通の障害とはなっていなかった。 したがって、今川氏親はこの分岐点に挟まれたような地形を利用して、今川の居館を造った。 ここが政治・経済・文化の拠点であった。現在の 静岡市 立病院の場所である。 現在の安倍川の西側にある今川氏親の増善寺 ( 慈悲尾 )や、今川氏の重要な持舟湊と持舟城といった地域への往来は自由にできたのである。
今川氏は、持舟城・ 鞠子城・賎機山城・八幡山城に砦を築き、家臣あずけ今川館を遠まきに守り、それぞれの山城を戦闘の拠点としていた。 後に徳川家康が大御所と定めて自らの居城とするため、隣接地に駿府城を築城した。
安倍川は今日の流れとはまったく違っていて、現在の 中町 交差点が本流で駿府の町を乱流していたので常に洪水に悩まされ、同時に洪水から駿府城を守るため従来の安倍川の流路をかなり西に移し藁科川と合流されるための工事を慶長12年(1607)に家康が薩摩藩に命じて大堤防を築いた。こうして堅固な堤で知られる薩摩土手が現在の位置付近に出来たのである。
増善寺の等膳和尚は竹千代(家康)と同郷で三河出身であった。駿府増善寺( 静岡市 火葬場から500M先)は今川氏親の菩提寺である。当時千人位の修行僧がいたそうである。駿府で人質生活をおくっていた時たびたびこの増善寺に訪問し、等膳和尚と親しくしていた。
竹千代は、増善寺に鷹狩のため遊びに来た。これを見つけた和尚は、この地は殺生禁断の聖地であることを説き聞かせ、同時に竹千代の境遇を案じてお互いに心を通わせることになった。 竹千代は三河へ一夜でいいから父の墓参りをしたいと話した。和尚は心を打たれ、一案を練った。
今川の役人に見付からないよう、「つづら」に竹千代を隠して下人に背負わせ、地元の百姓に持舟城下を避けて、向敷地、寺田、大和田、小坂、用宗の各村を経由し石部村まで案内させた。その道案内をしたのが、広野の味知家であり竹千代は持舟の港から密かに岡崎に向かって無事帰途に着いた
岡崎城に滞在していたある夜、八十歳を超えていた老臣鳥居忠吉は、こっそり主君竹千代(家康)を城内の最奥の蔵へ案内する。そこには、今川の目を盗んで密かに貯め込んだ米や銭が山積みになっており、この忠実な老臣は「殿が将来独立なさる時はこれを軍資金としてお使いなされよ」と言う。下克上の世の中のこと、不在の主君を廃して自分が三河の領主になることさえできなくはない地位にあった鳥居だが、この老臣はあくまで質朴に忠実に不在主君のために永年蓄財を続けてきたのである。その後竹千代は岡崎から墓参りを済ませ戻ってきたのである。出世した家康はこれら各村の者に田畑を与え、三河地方に伝わる精進料理の「混ぜずし」を各村に教え伝えたとされている。舟を提供した石部村の住民は現在でも書状を家宝としているのである。 旧恩に報いるために、等膳和尚にも袋井の可睡斎を建立させ、駿・遠・三・豆の四ケ国の寺院総取締役の重職を与え、後に朝廷に申し出て、禅師の号を下し陽した。 時に天正18年(1590)であった。
今川氏の人質として駿府にいた竹千代は、元康と改め、弘治3年(1557)16歳で瀬名姫と最初の結婚をした。瀬名姫(築山殿)は今川氏の重臣で持舟城の城主関口刑部少輔義広の娘で、母は義元の妹である。おまけに8歳も年上を押し付けられた結婚であった。それでも長子信康、長女亀姫が生まれた頃までは夫婦仲は良かったらしい。ところが、永禄3年(1560)桶狭間で今川義元の大軍2万5千が信長軍2千の奇襲で討ち死にし、翌年元康(家康)は織田信長と同盟を結んだことから、元康(家康)と築山殿との間に大きな亀裂が生じた。さらに,義元が死んでしまったので駿府に急いで帰ってくるだろうと考えていた築山殿の期待に反し、元康(家康)は築山殿と信康を犠牲にする決心をしたのである。翌年、岡崎城にいる夫のもとに戻ることができ喜びもつかの間、元康は家康と改名した。これは今川氏からの自立を意味した。 その上、永禄10年(1567)長子信康と織田信長の長女徳姫が結婚してしまったのである。築山殿は今川氏出身の誇りが通用しなくなる焦りと、家康が美しい側室を寵愛して子供まで産ませたので、嫉妬で狂うようになる。
築山殿は信康と徳姫の仲睦ましいのも気に入らないことで、信康に側室を勧め二人の仲を裂いてしまった。居たたまれない徳姫は、父信長のもとへ、夫信康の薄情に対しする恨みと、義母築山殿の仕打ちに対する怨みを込めた手紙を送った。信長は激怒し家康に武田方との内通を事実として築山殿と信康の処刑を伝えたのである織田家の後ろ盾なくしてはたちゆかぬ徳川家なので、無実を信じつつも築山殿を殺させたのである。天正7年(1579)8月29日のことであった。家康は内心討手が築山殿を殺すことなく、女のことであるから何処かへ逃がしてくれるものかと期待していたらしく「処置の仕ようもあったろうに、考えもなく討ち取ったのか」と、嘆息したともいわれる。戦国時代に生きた武将の妻の悲劇的な死であった。
信康も二俣城で同年9月15日切腹した。二人の処刑は家康にとって生涯の痛恨の苦しみとして残ったが、結果として家康の前途を開くことにもなった。
同年9月19日、家康は持舟城を攻撃し、落城する。持舟城の姫様処刑から20日後のことであった
持舟城攻防史の初回は、永禄11年(1568)12月、武田信玄の駿府侵入によって、その幕は切って落とされた。今川義元亡き後、今川氏真がその跡目を継いだが、今川氏の勢威は衰え、斜陽化の一途をたどった。信玄は今川氏を攻めて、活路を東海道に求めた。 持舟城主一宮出羽守隋波斎は、信玄の駿河侵攻をきくや、これを薩た山(興津)に迎撃すべく、軍艦として出向き、一敗地にまみれ、戦没者となった。 中盤戦は、天正7年(1579)9月19日に行われた戦闘であった。
初回から中盤戦に至る12年間、持舟城は武田水軍の根拠地、持舟湊の後背地としての軍事的役割も兼ねていた。織田信長、徳川家康、北条氏政は三者同盟して、駿河に侵入した武田勝頼を攻撃する態勢を整えた。持舟城の城主は向井伊賀守正重であった。向井伊賀守正重は伊勢の尾鷲の出身で豪族向井一族である。今川氏が隣国小田原の北条氏が水軍を置いたのに習って向井一族を迎え入れたのである。今川氏が滅亡した後も武田信玄に仕え、武田水軍の編成に尽力し持舟湊の開設に踏み切ったのである。
天正8年2月、武田勝頼は持舟城攻防の中盤戦で、持舟城が家康の領有するところとなっていたので、山城奪取に12,000の軍兵を率いて、西進、家康はこれを察知し素早く山城を退去した。勝頼はこれを残念がり、持舟城に朝比奈駿河守信置をおいて甲州に引き揚げた
持舟城攻防戦の終盤は天正10年(1582)2月18日、戦局は動いた。武田勝頼を討つため織田・徳川連合軍は信濃国・駿河国への侵攻を開始した。家康は駿河国からの攻撃を担当、浜松城を東進した。駿府は小京都ともてはやされるほど文化の香りが高い地であつた。その今川家12年間の人質時代この地駿河国有度郡用宗を何度も訪れた度に故郷の岡崎への望郷の念にかきたてられた。持舟城は武田勝頼の領地である。持舟城を攻め落城させたのは天正10年(1582)2月22日のことで、徳川家康と持舟城城主向井伊賀守正重の戦いは熾烈な攻防となり、向井伊賀守、三浦兵部以下400名討ち取られた。本能寺の変の3ヶ月前だった。
2月22日、持舟城主朝比奈駿河守は、当目峠(用宗と焼津の境界線地域)にて、家康を迎え撃ったが首180獲られる。情勢不利とみるや城を明渡し、久能城に逃げ、持舟城の開城はあっ気ない幕切れとなり、家康は松平家忠に再び山城を預けたのである。 その後、甲州武田氏滅亡により、家康は家忠に駿府城天守閣の築城を命じ、持舟城は廃城の処置をとった。天正13年(1585)歴史的使命は終わった。持舟城攻防の歴史は、今川氏の退潮と武田の滅亡そして徳川の勃興の歴史であった。
「江戸前」という言葉は江戸寿司に象徴されるように威勢のよさや新鮮さを感じさせる即ち「江戸の前の海」を指しています。 佃煮も同様で江戸前の海の小魚を煮て、佃煮とする話しは天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ移り住むようになった頃からといいますから、400年以上もの歴史がある話です。 江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門、伊賀の忍者服部半蔵正成、堺の呉服商人茶屋四郎次郎清延3人が家康公を助けた物語は逸話として伝えられています。
そして天正10年(1582年)6月2日の早朝、明智光秀の謀反により本能寺の変が起こり、信長が自刀したのです。
家康は5月に安土城を訪れた後、堺を見物していた。本能寺の変が起こると、堺の朱印船貿易商茶屋四郎次郎清延からの知らせで直接の退路が阻まれていることを知らされ四天王の一人本多重次は迂回しての脱出奇策をとりました。少人数の武装のない家康一行が、土民が落ち武者にとっていかに脅威にとなるか知り抜いていた。家康は岡崎城へもどることができるか。三河への最短距離である伊賀越えの間道を行くことにしました。 家康は、何度も、「もはやこれまで。腹割さばいて、信長様の後を追う!」とわめいたそうです。その間堺の商人茶屋四郎次郎( 大阪府堺市 )は土民に金を恵んだり、時には脅したりして、服部半蔵を頭とする伊賀の忍者部隊(三重県伊賀市)にも助けられながら三河へと急いだのである。
一行が、神崎川( 大阪市住吉区 )にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。一行にとって、佃煮の始まりともいえる佃村の人たちから受けた小魚には、日持ちも良く、体力維持にも素晴らしい効果を発揮しました。佃煮の祖形ともいえる貝や小魚を塩ゆでし干物にした忍者食も伊賀衆と一緒に食べた家康は、佃煮のありがたさを身にしみて感じたのだった。山越えし、やっとのことで三河岡崎城にたどりついたのです。
その後、的確に働き家康の命を守ったとことにより、伊賀の地侍は江戸に召し抱えられ、警護役をつとめます。江戸城に「半蔵門」が作られました。
以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りのできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめたという伝えもあります。 江戸幕府の台所へ出入自由の佃島の漁民達は、江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、暮らしを立てていました。当時の佃島は離島でしたから、海が荒れて漁業が出来ない時のために、昔からの生活の知恵で伝承してきた雑魚の保存を醤油炊きしておきました。やがて雑魚だけでなく江戸前の新鮮な白魚やハゼ、小海老などのいろいろな小魚を醤油で煮込み始めました。 佃の漁師は、将軍家の御肴役だけではなく、江戸の人口の激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者だったのです。
幕府は増え続ける江戸住民のお魚確保のために、従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。この孫右衛門は魚河岸の元となる店を開いたとも言われている。現在の築地にある中央卸売市場です。
武田氏滅亡三か月後の天正十年六月、持舟城の伊賀国向井水軍( 三重県鈴鹿郡関町 )は徳川家康に召抱えられ翌月、北條水軍と対戦し、早くも8月14日感状を賜った。(今川、武田、徳川と召抱えられる) 家康の関東入国と共に、このとき徳川家臣の四天王本多重次(通称勇猛果敢で剛毅な性格より「鬼作左」)は向井伊賀守正綱を伴い伊豆国へ赴任した。 日本一簡潔な手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は、本多重次が、戦場から妻に宛てたといわれる手紙です。要領を得た簡潔な手紙文として余りにも有名です。 伊賀の忍者部隊(三重県伊賀市)、伊賀の豪商向井水軍とは同郷で朱印船貿易商茶屋四郎次郎とは海運業で深い関係が有り、共に家康の三河入りには過分の働きをした。 家康は半蔵には八千石をもって取り立てた。佃村の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民30余名も、徳川家の御肴役として江戸に移住をさせ、これら人々の輸送に向井水軍が担ったのです。
伊豆の国田子は伊豆水軍があった風土で、向井水軍と共に海を舞台に活躍していました。伊勢や伊賀から江戸への輸送航路は度々嵐に遭遇し内湾の持舟湊や田子湊に寄港しその間住民との関わりが蜜になり小魚のいわしの佃煮技法やカツオを干し、乾かして固めた堅魚(鰹節)紀州熊野節(薩摩、土佐、田子節も熊野節の製法取り入れた)の技術を伝授し残してくれたのです。 堺港の大商人や、京の都の上流家庭で鰹節がだしとして用いられるようになり、土佐藩主に赴任した山内一豊も鰹節を藩の貿易品にしようと考え、熊野節の製法を積極的に取り入れました。 用宗のカタクチイワシを原料とした特産品ちりめん佃煮、ごまめ、ちりめん干し、イワシの煮干や鰹節等のルーツは420年前の本能寺の変にあるのです。 その後の伊豆節は土佐、薩摩節と並び3代名産品と呼ばれるようになり、
田子の鰹節職人は有度郡用宗に鰹節製造法を指導に来られておりました。 私の祖父、伯父、叔父もかつお船、まぐろ船漁、鰹節製造を用宗、清水、焼津で携わって参りました。
寛文5年(1665)9月、向井伊賀守正重の4代目の孫、向井兵庫政興は徳川家に仕えており、長崎奉行勤番のため、その往復の途中、持舟古城で非業の死を遂げた向井伊賀守正重の霊を慰めるため、9月19日の命日を期して、本丸の跡に石造りの「マリア観音」を建立した。 持舟城の本丸に井戸を掘り当てたことは注目に値する。敵味方双方、奪取を狙う激しい攻防戦が行なわれる山城砦は、水の確保が重要な使命となる。この曲輪内の井戸は城兵の飲料水だけではなく、城下の 青木村 に「くらがや井戸」があり、戦国時代の山城造りに大きな要因としてあげられた。
私(魚竹寿司店主)の祖母「とよ」の実母「むら」が前田半四郎と結婚したのは、300年の徳川時代が終わった明治8年(1876)であった。 夫婦共に信仰の道に心を傾けられ、むらは20数余年の厳しい修行の末に教祖になったのである。
熱心な信者と共に「城山観音」を“守り本尊”にして精進した。祖母「とよ」の実妹まつも信仰の道に入り、母むら亡きあとを継いだ。まつは持舟城本丸登り口に「城山観音」のお堂を建ててお守りし、昭和50年92歳で亡くなるまでここに住み、城山を見守っておられました。私達は“城山のおばさん”と呼んでいた。
明治35年(1903)教祖むらは、持舟城本丸跡に50坪の土地を買い求め、手作業で新たな井戸を掘り当てたのでした。
荒廃した戦国時代の山城砦と井戸は城兵と共に埋もれていたが、320年前の持舟城の井戸が再びよみがえり良質で豊富な水が湧き出たのです。不思議なことに、この井戸水は病を治す力が授かっていたのだった。
戦国時代に持舟城で育った築山殿、山中で戦い散った城主一宮出羽守、向井伊賀守、三浦兵部、そして多くの武将、城兵の悲哀と怨念がむら様、まつ様に何かを語り体に伝えたか、因縁を感じるのである。
持舟城は城山の山中で静寂を保ちながら、その遺構さえも自然の威力で消滅したしても、もし戦国時代にそこにいたとしたら、ここ城山にも武者が走り、山中で敵勢の声がこだまし、ほら貝の音が鳴り響いているだろうと想像できる。
古城にはロマンがある。夕暮れ時は特にそれを感じる。当目峠で戦い死んでいった武者の魂がさまよっているように感じられ、夕焼けを見ると流された血を想像する。
JR用宗駅近く、町内会事務所の横に「城山烈士供養塔」がある。1954年(昭和29年)に地元の人たちが建立したものである。
「城山観音」は前田家5代目茂様がお守りし、井戸を掘った小槌は4代目政五郎様よりお預かりして、竹内家で今でも大切に保管されている。教祖むらの「城山観音」と『井戸水」は戦国時代の「マリア観音」と『本丸の井戸」との因果関係は何を意味するだろうか。 祖母の母と妹は持舟城の「城山観音」を“守り本尊”にして精進したのです。当家と向井水軍との関わりを意識するのです。昭和53年12月9日に東京在住の向井本家当主重郷氏が当家に訪ねて来られ先祖を偲んだのでした。
持舟鮓 其の後の今川氏の家臣は周囲を大海駿河湾、断崖絶壁の当目峠の山、大河安倍川に囲まれた旧長田村に身分、姓名をひたすら隠しに身を伏せ、漁民、農民となり村に土着したのである。京の都に想いをはせた今川氏の家臣たちは今川の文化として祇園祭を残し、旧長田村の住民は400年もの長き間受け継ぎ今日に至っております。又、今川義元と武田信玄に仕えた、向井水軍は伊豆田子村と同様持舟湊(用宗港)を伊勢の漁業技術を後世に遺し、今日まで田子村の漁業者とは交流があり、鮪、鰹船はシラス漁船として引き継がれ全国的ブランド「用宗のシラス」を残し住民の生活の糧となっている。
現在の用宗、石部、広野、小坂の各村は年1回の五穀豊穣、海難祈願等と戦国時代に持舟城で育った築山殿、長男信康、山中で戦い散った今川家の家臣や徳川の家臣達を供養する祭りが6月28日祇園祭りとして盛大に行われており、この日は各家庭では家康が三河から教え伝え、向井水軍が伊勢から持ち帰ったとされる「混ぜずし」別名持舟鮓 漬ける習慣が今日まで受け継がれております。