長門鮓

2021年9月15日

静岡小吉田の名物 長門鮓

日本紀行文集成に大田南畝の紀行文「改元紀行」(文化1年1804)の中に長門鮓が記されている。

「享和元年(1801)幕府の命を以って大坂なる銅座に出張したればしか云うへり。・・・・・南畝名は覃。・・・・後七左衛門と更む。杏花園櫻山人等は其別號なり。詩文を善くし。叉狂歌狂詩を好みて・・・蜀山人號あり。幕府の士にして。寛政中遠山景善と共に昌平学の對策に應じ。甲科の首位たり。ちゅじつ著述多し。 文政6年4月死す。享年75。」

「十七夜山千手禅寺も左の方に見ゆ。土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙と呼ぶ。小吉田の立場に到れば酒屋あり。小き桶に鮎を漬てひさぐ。長門鮓といふ。味よろし。」 とある。(筑波大学付属図書館所蔵)

駿国雑誌(1817年)には當國 、鰶(このしろ)を喰ふ者少し、故に多く鯵を鮓にする。府市鮓に製る物、鯵及び平目、鯖の類也。長門鮓 は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓 (ごもくすし)也。

大阪の豪商山片重芳が仙台へ下方の徒次、文化10(1813)年正月に「安倍川を渡り・・・・・小吉田の茶店に休む、此所鮓の名物にて風味よく、小桶に漬けて有り、酒も至てよし」と記してある。

俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり父に連れられていて伊予松山へ帰郷の途中(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった。」と追懐している(「鳴雪自叙伝」大正11年)。

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、「吉田」のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのが、近くの蒲原宿の

◆すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし という声だけ聞かせている。宿場は、このよう な大衆的すしも多かった。

香川景樹の「中空の日記」

「十三日。つとめて巴川渡る。此川庵原有渡兩郡の境と云ふ。暫し来れば草薙の神社へ詣づ道あり。左の廣野に一叢の森見ゆ。焼津なるべし。今もその大御つるぎのたち風はかれふす草いろに見えけり。
小吉田の外れなる。長門鮓売る家に憩ふ。此所は往昔梶原景時。二代将軍の怒りを避け。一宮より落延び来て。其子景季景高等と共に討死せし渡り也。打渡したる野末に。芝山の紅ぢたるあり。里人梶原山と云う。其上の松叢に塚ありと聞くも。いとあぢきなし。遥かに拝遺りて。 此主は鎌倉影正ぬしの孫の統にて。我が遠つ祖父とは。兄弟の連なる因み外ならざめれば。斯く一首の歌を手向るも。逆縁にあらじかし。」とある。

東豊田郷土誌( 静岡市 駿河区国吉田)によれば「小吉田立場(国吉田)に「立て場」があり、中程に稲葉源右衛門の家を休憩所となし 「立場本陣」と言い、諸侯参勤交代中の際、諸藩士が多数休憩し、昼食をなした所。」と記されている。

ロシア使節応接掛江戸凱旋には1854年、嘉永七年「安倍川の越し、大井川より小なり。上がれば、名物餅美味なり。府中に入る。宜しき城下なり。横田、狐カ崎数村を経て、小吉田に小休し、長門鮓を食ふ。小桶に入りて売る。鯛の切り身より種種品有りて味美なり。興津に入り午餐。鯛の名所なり・・・・・」。

桶すし(商品名)はチラシの押し鮓32文

吉田川(現存)にかかる土橋の辺を的場と言い、的場茶屋の稲葉屋小三郎製の桶ずし(五目鮓ちらし)が、最も美味だとされた。
長州の殿様が賞味されたので「長門鮓」とも言われた。長州の岩国すし(長州・山口県)は大掛かりな箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指 そこの殿様をうならせた桶すし(チラシの押し鮓)はサクラエビ(桜蝦)の五目散らしであった。

高杉晋作の好物は長州鮓(ちょうしゅうずし)

「則ち鯛の白身ばかりを以て推す鮓である」(横山健堂『高杉晋作』大正五年) すなわち長州鮓とは鯛の白身で作るという「箱すし」(押し鮓)である。 「長州」は「長州毛利家」といい つまり「長州」といえば「お家」。萩では古くから祭や来客のさい、酢〆の鯛・鯵(あじ)・鰤(ぶり)などの魚と甘からく味をつけた椎茸・人参・おぼろを使った押し鮓をよく作って食べた。 晋作は野山獄に入牢した際も特別扱いで「長州鮓」を家族は晋作に差し入れた。 長州鮓と類似している長門鮓(ながとずし) 駿国雑誌(1817年)には當國 、鰶(このしろ)を喰ふ者少し、故に多く鯵を鮓にする。府市鮓に製る物、鯛・鮎・平目類也。長門鮓 は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓 (ごもくすし)也。 すなわち長門鮓とは小さき(10cm)桶に入れて売る「ちらしの押し鮓」である。 「長門」といえば「その時のお殿さま」を指すのである。その時の長門の殿様は第7代藩主毛利重就(1785~1805)。江戸への途中立場茶屋「稲葉屋」(造り酒屋)で食した「ちらしの押し鮓の長門鮓」は「長州鮓」と違った蝦(サクラエビ)の甘辛い佃煮。殿は感激し「長門鮓」と命名した。

注)サクラエビの大量漁獲は明治27年頃であったが江戸後期でも偶然漁獲はあった 各藩の武士は旅の土産話として東海道の名物「長門鮓」を食し小腹を満たした。 江戸へ出た質素倹約の吉田松陰も同様「長門鮓を食した・・・」と在京某テレビ局からの新事実情報有り。高杉晋作。小田村伊之助(楫取素彦)達も江戸からの帰路の際も食しただろう。 「長門鮓」は明治30年(1897)ころまで静岡市駿河区国吉田で売られていた 。

押し鮓の作り方

「鯛は三枚におろし、薄くそぎ切りにする。塩を少しして、砂糖を少々入れた酢につける。水でもどした干ししいたけとにんじんをせん切りにして甘からく味をつける。ごはんが炊けたら、魚を浸した酢を加えて、すしごはんをつくる。   すしごはんを木型に合わせて、上置きに酢づけの魚、しいたけ、にんじんを形よく置いて、押し抜きでしっかり押さえて抜く。皿に盛るときに、そぼろを上に飾る。

ロシア使節応接掛江戸凱旋記によれば五目すしに魚は興津鯛(アマタイ)を使用していた。当時、江尻沖ではアマタイ、マタイ。ヒラメはよく獲れていた。(現在でも甘鯛の水揚げは山口県(萩)が日本一。 )  その他鮎・鯵・鯖・平目等季節的な魚の使用や価格にも数種類有り

値段は、土地の者へは24文(220円)、旅の者には32文(300円)で売った。
江戸時代には酢が醤油・味噌と共に庶民まで普及し 1800年代までは米酢が一般てきで大阪の押しずしは当時でも既に米酢を使用していたので、稲葉屋の長門鮓も同様にシャリの合わせ酢は米酢であったと思われる。
酒の蔵元という条件のもと、酒、酢、味醂等自家製ものであったと思われる。

明治天皇も行幸の際休憩

明治元年(1868年)8月27日、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、同年9月20日に京都を出発して、東京に行幸した。岩倉らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にもがお供した。
翌年の明治2年(1869年)再び「京都より東京へ御再幸のさい、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」と記されている。このときも何千人を引き連れて稲葉屋に立ち寄られたのか?。 当時敷地面積は1町歩(3000坪)有り、600~700年の歴史有り、稲葉源右衛門は造り酒屋の蔵元であった。

山葵漬の樽桶は長門鮓の桶

東海道線が出来て田丸屋(創業明治8年・1875年)が桶鮓の桶から工夫して容器に入れた山葵漬を駅売りするようになって全国的に有名になる。 容器は木製で、直径10cm、深さ7cmほどの竹のタガをはめた蓋付小桶。

長門鮓の調理とおむすびの調達

お土産用の長門鮓の魚は保存性を考えると〆物用に白梅酢、そして漬物にも使用していただろうと思われる。
生姜には赤梅酢の使用をしていた。関西では梅酢漬の生姜(紅生姜)をつけるのが約束事になっていた。
稲葉屋の当時の宿帳によりますと旅人は「おむすび」を購入、特に各藩の一行からは数百個単位で「おむすび」の注文が有り、梅干しの製造は 相当量と想像がつく。
関西の押しずしと同様のシャリの合わせ酢ですしを漬け、具材も野菜類の必需品については通年供給できる為にも凍みこんにゃく、ずいき(里芋の茎)など乾燥野菜も常に仕込んであった。

季刊清水に寄稿

『改元紀行』(文化1年・1804)に、彼が公用で長崎へ下ったおり(享和1年・1801)の話として「十七夜山禅寺も左の方に見ゆ土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙ち呼ぶ。小吉田の立場に至れば酒屋あり。小サキ桶に鮎を入れてひさぐ。 長門鮓 ( ながとずし ) と言う。味よろし」と記されている。(筑波大学付属図書館所蔵)
今からさかのぼること230年ほどの前の江戸時代(将軍が11代家斉だった1780年頃)、東海道小吉田(現在の静岡市駿河区国吉田)にあった立場茶屋(府中と江尻宿の間に設けられた休憩所)の稲葉屋では、東海道を行く旅人に特産のお茶や山葵漬を旅の土産に販売する傍ら、甘く煮付けたニンジン、シイタケ、タケノコ、コンニヤクに蝦(甘く煮た桜エビ)を上置きした五目ずし(季節によりアユ、アマダイ、タイ、ヒラメの酢〆)を、竹のタガをはめた蓋付の小桶(直径10センチ深さ7センチ)に入れ、小腹を満たす程度のお土産として販売していた。
桶鮓が長門鮓が美味だった。旬の魚をのせた高級の長門鮓であったが、 安い桶鮓もあり、サバやアジも使った。旅人のお土産や小腹に 入れるにしても抗菌力のある紅生姜(赤梅酢漬け)は必須だった。 これを参勤交代の途中に食した長州藩長門の殿様がたいそう美味しいと気に入り、以来「長門鮓」の長門鮓で店の名物として親しまれるようになった。 殿様のお国自慢である岩国ずしは別称「殿様ずし」と言われる箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指だが、そんな岩国すし以上に美味しいと絶賛され「長門鮓」と命名されたのは、駿河の国しか獲れない桜えびの珍しさと美味しさによるのではないだろうか。
駿国雑誌(1817年)に「長門鮓 は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓 (ごもくすし)也」とある。また、俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、伊予松山へ帰郷の(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった」と追懐している。
明治天皇に関しても(明治2年・1869)「京都より東京へ御再幸の 砌 ( みぎり ) 、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」との記録と看板が残されている。
一方、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、小吉田のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのか、近くの蒲原宿のすしにしようと声だけ聞かせている。 「すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし」このように立場茶屋は普通茶屋とは異なり、どちらかといえば身分の高い旅人が利用した場所だった。
16代当主稲葉弘さんは 「当時、3000坪の敷地があり、造り酒屋もしておった。 しかし、大名が立ち寄る度に茶店を改装したので、借金を相当した。下級武士やお供の方々はおむすび一人あたり3個あて調達し、休憩場所は近所の民家を利用した と話してくれた。
長門鮓にまつわる歴史には最後にささやかな逸話が付け加えられている。 東海道線が開通してからの稲葉屋は次第に衰退して明治中頃には廃業され、長門鮓も幻の鮓となったが、静岡特産のワサビを使用したわさび漬けの老舗田丸屋(創業明治8年・1875)が、東海道線が開通した際わさび漬けを駅売りすることになり、長門鮓の蓋付の小桶をもとに容器を開発し、それが全国的に有名になった。長門鮓は鮓自体が消えた後も、わさび漬け容器としてなじみの深い丸桶に姿を変え、今日まで引き継がれ人々に愛され続けている。