江戸時代の暮らし

2021年9月29日

現在と江戸時代の相違点

江戸時代、高級ではなかった握りずし屋台であったが、何故、現在高級な食べ物になったか

すしダネの下処理

現今は、いわゆる刺身をそのまますし飯に乗せることがごく普通になっているが、保存技術の乏しかった時代にあっては、あり得ないことだった。生魚を準備して客を待つ商売では、当然、魚が損傷しないような処理を施すことになる。たとえば、塩で締める、酢で締める、ゆでる、焼く、ヅケ(醤油漬け)にする。などである。したがって、すしダネにはすべて調味が施してあるわけで、つけ醤油は不要であった。

握りの大きさ

明治初年の与兵衛ずしの握りずしで、それは現在の握りよりも2~3倍の大きさであった。あまりに大きすぎるので、後でこれを2つに切って供するようになった。これが「2カンづけ」の起源となった。 低廉な屋台店のお好み注文 カウンターで職人と向かい合い、好みのすしダネを注文する方法も、当初はなかった。屋台では、あらかじめすしが握ってあり、客はそこから好みのものをつまみあげる。だからこそ、客は座るまでもなく、立ち食いで十分だった。ただ、この方法だと、売れ残りが出る可能性がある。そこで、客の注文を受けてから握るようになった。
今日では、握りずしといえば高級料理というイメージがあるが、当初はとんでもない話で、屋台で気軽に食べるものであった。客は、小腹を満たすためにフラリと立ち寄り、たったままで3つ4つをつまんで帰る。どちらかと言えば、高級とはいえないのが握りずし屋台であった。出入りするは圧倒的に男性が多く、女子供は持ち帰りか出前で食べた。

すし職人 ところで、江戸のすし職人は、なにしろカッコよかったといいます。身ぎれいな服装で、手ぬぐいを吉原かぶりにした粋(いき)な姿は、いなせの代表。数ある食べもの関係の職人のなかでも評判の美男子ぶりだったそうです。
江戸時代のすし屋は、ほとんどが屋台か、棒手振(担ぎ売り)。すしの入った箱を肩にのせ、「すしやコハダのすーし」と呼んでまちで売り歩くと、どこへ行ってももてたといいます。 現在でも、カウンター越しにきびきびとすしを握る職人の姿は清潔感にあふれ、鮮度の良さのイメージとかさなっていいものですが、当時も職人の姿は、すしの魅力のひとつだったかもしれません。

すしが高級料理に

文化年間に大阪から進出して深川で開業した「いさごずし」は、付近の名勝「安宅の松」にちなんで通称「松がずし」「松ずし」などと呼ばれた。この店の商売は派手で、しかも価格は常識を外れるものだった。
「卵は金、魚は水晶のごとく」というその高級感が世にもてはやされた。これに同調するすし屋も後を絶たずこれにより、すし屋は、屋台などの低廉なものと高級路線の乗ったものとの2系統に分かれた。高級な店は、天保の改革時に質素倹約令に触れて処罰されたが、以後また復活し、現在に至る。握りずしが高級料理になったのは、彼らの仕業である。

屋台店への規制

一方の屋台店は、衛生と交通安全の理由から、昭和初年までにその多くが規制された。結果、握りずしは高級料理としてしか存在しえなかったのである。

回転ずしが屋台店商法と共通

昭和40年代から、持ち帰りずしや回転ずしが流行し、いまや気軽な価格で食べられるようにもなっている。とりわけ回転ずしの人気は高い。「すし通」連中からはいろいろと揶揄(やゆ=からかわれる)されるが、よけいな作法をうるさく言わない、あらかじめ握ってある中から好きなものを選び取る、などの商法は、まさに江戸前握りずしが登場したころの屋台店商法と共通している。

江戸時代の食文化懐古主義

確かに最近、江戸時代の食文化に関心を持つ方が増えてきたようです。
まずは、健康志向の高まりです。戦後になると、急速に食文化が多様化し、それに伴って生活習慣病などが問題視されるようになってきています。そういう意味で、日本古来の質素な食事の基本である江戸食が注目を集めているのではないでしょうか。
それからもう1つは、懐古主義でしょうか…。現代は、生活全般が洋風化しており、日本本来の姿が失われつつあります。あまりにそれが進んだために、江戸時代のような日本らしさを懐かしんでいる。

江戸時代後期の食事

庶民の食事

明け六つ(午前六時頃)から長屋では、朝食の支度をはじめる。 一日分のご飯を炊き、それを木製の飯櫃に入れ、昼と夜も食べる。 朝食は温かいご飯、味噌汁、漬物が普通。
昼は、冷飯に朝の残りの味噌汁をかけてすませる。 外で仕事をする職人は弁当持参だが、後期に屋台が盛んになってくると外食をする人が増えた。 夜は、野菜の煮物、焼き魚などがつく。食品添加物もなく、季節に応じた旬の物を食べていたわけだから、現在からするとある意味、羨ましい暮らしだったかもしれない。

購入先

惣菜売りや野菜売り、魚売り、あるいは塩や炭などの日用品売りなど、様々な棒手振(天秤棒でのかつぎ売り)がやってくる。 食事にかかせない漬物は、商家など人手や貯蔵場所のあるところは自家製で一年分漬けた。とにかく、長屋には早朝から夕方まで、様々な物売りが移動コンビニ店のようにやってきたらしい。

武士の食事

大名などは料理人をかかえ、選び抜かれた食材を使った料理を食べた。 刺身や酢のもの、煮物、焼物、吸物など種類も多く、上級武士もそれなりに食生活は豊かだった。
下級武士は暮らしに余裕もなく、汁、漬物、茶漬などが普通で質素なものだった。 江戸には独身の下級武士が多く、彼らは「賄い屋」とか「菜屋」の世話になっていた。
賄い屋 江戸城中の泊り番の者や組屋敷の独身者に一汁一菜の弁当を運んだり、諸見付警固の番人や定期的に行われる寺社参詣の供回りなどに弁当を入れていた。宅配弁当屋みたいなもの
であった。

江戸時代の物価

江戸時代の物価

江戸時代の庶民の暮らし とりわけ物価はどうだったのか関心があります。 よく小判1枚つまり金1両は、現在の貨幣価値に換算すると幾らになるのか、1両が6万円から10万円の間だとするものが多いようです。ですから、間を取ってここでは1両=8万円とします
当時、ウナ丼が1個2000円から4000円(100文から200文)、どじょう汁、鯨汁1椀が320円(16文)どじょう鍋は960円(48文)である。
蕎麦(そば)一杯の値段 1文が20円ですから、蕎麦一杯は320円ということになります。
初鰹の値段 べらぼうに高いものですが、そこは「宵越しの銭は持たねぇ」といって江戸っ子は買い求めるた。この頃の初鰹1匹の値段は、4万円ということになります。
以下に主なものを列挙します。

・ 江戸後期の銭湯の入浴料が、200円。

・ 家賃が、間口9尺・奥行き2間の裏長屋で1ケ月2万円。

・ 写楽や歌麿の錦絵1枚が、400円。

・ お伊勢参りの旅費(江戸~伊勢、往復24日)が、4両(32万円)。

・ 宿駕篭賃が、1万2千円。

・米相場ですが、1升2000円。 江戸っ子の飲んでいた居酒屋

・酒一合の値段は次のとおり。

・立ち飲み…約百五十二円

・お銚子…約二百二十八円

・上酒…約四百五十六円

・極上酒…約六百八円

現在と比べると、高価な感じがするのは、流通コストが高かったためと考えられる。
一般の庶民の収入 ・大工、左官、屋根葺、壁塗り、石切り、畳刺し、などの職人の賃金が比較的恵まれて いたようですが、それでも大工の日当が飯代込みで、1日10800円くらいだそうです。月のうち20 日仕事があったとして月収216000円です。

・これがいわゆる棒手振り(ぼてふり)商売だと、早朝より夕方まで練り歩き、天秤棒の荷を全部 売り切っても1日8000円くらいにしかならないそうです。売れ残ればその分儲けが減りますし、雨や雪の日には売り歩くのも大変だったでしょう。

武家の暮らし向き そう楽ではないようです。100石取りの武士の場合、年収は米100石ですから、1石=10斗=100升という換算に米1升=100文を当てはめて計算すると、百万文(2000万円)となります。年収2千万円といえば高額所得者でしょうが、武家の場合家族のほかに家来を養なう必要がありますので、結構大変だろうと思います。

すしの価格

・『松がずし』や『與兵衛ずし』の繁盛に影響されて、江戸のすし屋のすべてが握りずしに転向し たようである。  『守貞謾稿』は、天保(1830~44)末頃のすしの様子と値段を次のように記録している。

・箱押しずし(方四寸)960円。コケラずし(鶏卵焼、あわび.鯛等)1280円 ・毛ぬきずし(握りずしを熊笹に巻く)1個120円。 ・稲荷鮨が、1人前で120円。

・握りずしの価格 ・鶏卵焼、車海老、海老ソボロ、白魚、マグロサシミ、コハダ、アナゴ甘煮長のまま。以上の価格 160円也、玉子巻は320円ばかり也。

・他に、貴価のもの多く、鮓、1ツ80円(4文)より、1000、1200円(5、60文)に至る。

奢侈(しゃし)禁令

12代徳川家慶(いえよし)、天保府命(有明な天保の改革老中水野越前守忠邦が天保12年  (1841)に発した政治改革で極端な奢侈(しゃし)禁令が行なわれた)の時貴価の鮓を売る者200人余人を捕まえ、手鎖にする。その後皆、80円、160円(4文、8文)のみ、府命、ゆるみて、近年400、600円(2,30文)の鮓を製するものあり・・・・

・散らし、五目鮓に椎茸、きくらげ、玉子焼、紫のり、めじそ、蓮根、筍、鮑、海老、の魚肉は生を酢に漬けたる等、皆、細かく刻み、飯に交え、丼鉢にいれ、表に金絲玉子焼きなどを置きたり、丼と云うは、一人分を小丼鉢にいれて、価、2000円或いは3000円也(100文或いは150文也)・・・・と記している。

・松浦静山(1760~1841)の『甲子夜話』には、「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは売る人の名なり。これよい味、一時、最賞用す。この鮓の価、ことに貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、24万円(小判三両)に換えるとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、即ち、棄てて顧みずと云う。この如く貴価の品、今に行はるるも、また世風を観るべし」とある。
松すし(松がずし・堺屋松五郎)の勢いのよさ、あるいは思い上がりぶりがよく分かる。
十両盗めば首のとぶ世の中で、三両のすしがよく売れたものである。 ともあれ、握りずし誕生の頃、江戸にはグルメの時代があったのだ。

江戸のファーストフード「早ずし」の誕生 

握りずしは、江戸の文化が作り出したといっても過言ではない。江戸っ子の、気短さや心意気、庶民性や旅や芝居の娯楽好きなど、江戸に生きた庶民文化が生み出した傑作食品のトップにあげていいだろう。

徳川家康の江戸入りが1590(天正18)年。江戸幕府を開くのが1603年。この2年前の 1601年に家康は、天馬制度、いわゆる五街道に宿場を置く宿制を定めている。

今年は、ちょうどこの年から400年目にあたり、宿場フェスティバルのような催しが各所で計画されている 江戸の文化を作り出すうえでいろいろな要因が考えられるが、この街道整備こそが、人とものと 文化の交雑を生み出し、江戸っ子の粋な心意気を作り出すことに大きな貢献をしている最大の要因だと思っている。

江戸市中の人口が急増するが、多くの人口を占めた庶民たちは今だ貧しく、手っ取り早く食事をするための屋台や棒手振による行商の物売りが数多く出回り、いわば外食ブームがおきる。

参考文献  著者 日比野光敏 「すしの事典」