瓦版
お知らせ
2023年5月30日
江戸の中期までは江戸の味覚といえば上方(大阪)から「下りもの」であった
江戸中~後期にかけて江戸の独自のものが江戸で生まれ上方(大阪)に流通した最初の商品
が海苔であった。
浅草前が海の頃 8代将軍吉宗が始めた浅草海苔の漁法が寛延2年(1749)海苔の発生に不可
欠な貝類が江戸川の氾濫で埋まってしまい漁具や浮遊物に付着する海苔を採取する漁法はで
きなくなる。
それ以降、品川に生産地は移る。このころから「そだひび立て」による養殖が始まり生産量
が増大した。
江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。
需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であっ
た。
地方に売りに出る「旅師」も長野県諏訪の人達であった。
江戸式製法が始めて箱根を越えたのは文政2年(190年前)のことであった。(握りずし
が考案された時期に重なる)
遠州舞阪(静岡県浜松市舞阪町)と駿河江尻 (静岡県静岡市清水区)の旅籠で始めて生のりを
食べた旅師諏訪の百姓森田屋彦之丞は大森ののりと同じだったので地元に養殖をすすめた。
その後、森田屋は大森から製造法をもらしたと村八分にされた。
当時は東京湾には、品川湊・江戸湊(新橋)・浅草湊という3つ港があり紙すきの工場があっ
て、すしの浅草海苔も浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られましたので「浅草紙」と
海苔1枚(全判)の標準サイズは縦21cm×横19cmでティッシュペーパーと同じサイズ
です。